2007年3月の日記(↑時間軸)
 
3月26日(月)
 

 記憶に関する本を翻訳している(しかも2冊同時に訳している)関係で、映画『メメント』(2000)を観る。おお、よくできた映画だ。『シックス・センス』の場合とはちょっと事情がちがうが、もう一度最初から観てしまった。
 キャリー=アン・モス(『マトリックス』のトリニティ)が出ている。前向性健忘(発症以前の記憶はあるのだが、それ以降は数分前のことも忘れてしまう)の男の話である。ストーリーを書くとネタバレになってしまうのだが、短期記憶だけでなく、長期記憶にも異常をきたしていたというのがオチ。
 
 土曜日は卒業式。ゼミ生たちの袴姿が見たかったのだけど、締め切りに追われているため、欠席させてもらう。
 
 日曜日は卒業記念パーティ。昔は謝恩会といった。恩師に感謝する会だったわけである。いまでも昔気質の大学では謝恩会と呼んでいるらしい。いまは、みんなで卒業を祝う会に変わった。したがって、われわれ教師も会費を払って参加する。
 今年のパーティは、いささか「能のない」パーティだった。いつもはアトラクションなどがあるのだが、今年はほとんど何もなく、ただ飲み食いするだけだった。後から事情を知ったのだが、この学年は全体的に、こういう催しには非協力的で、実行委員会に人が集まらず、たった2,3人の実行委員が奮闘したらしいが、少人数で大規模のパーティを企画運営するのはなかなか難しいものである。卒業アルバムはまだできあがらないそうである。
 例年通り、花束贈呈はあったが、今年は花束ではなく、いくつか花のついた桜の枝をいただいた。実行委員のみなさん、ご苦労様でした。
 
 きょう、月曜日は、私の家でゼミ生の卒業を祝う会、というか新4年生が卒業生を送る会。BBQをするにはいささか季節が早いので、寒かったらどうしよう、雨が降ったらどうしよう、と不安だったのだが、好天に恵まれ、汗ばむくらいの暖かい日であった。ゼミ生諸君の普段のおこないがよいのであろう(私のおこないがいいとは思えないので)。
 毎年、新4年生が卒業生に記念品を贈呈するのであるが(たいていは寄せ書きなど)、今年は各人の名前の入ったグラス(「マイ・グラス」)だった。新4年生の諸君、気張ったね。
 私は卒業生諸君からネクタイをいただく。ありがとね。
 新4年生の用意した巨大なケーキは写真入りであった。これには驚いた。食べられる素材だそうで、実際、みんなでばくばくと写真を食べてしまった。(→写真
3月23日(金)
 

 薄井憲二先生から、貴重なビデオを頂く。欲しくてたまらなかった映像なので、感謝感激。
 
 21日(祝)は、午後、新国立劇場にバレエ「オルフェオとエウリディーチェ」を観に行く。偶然、政策大学院大学の副学長、西本先生にお目にかかる。お元気そうで何より。
 
 そのあと、学士会館に急行。佐藤純一先生と栗原成郎先生の退職記念パーティである。おふたりともスラヴ語学の権威であり、木村彰一門下であり、どちらも東大を退官された後、この3月まで創価大学で教鞭をとっておられた。そして、両先生とも私の恩師である。当然ながら、私の恩師、先輩、同輩、後輩が集合した。ふだん学会でほとんど毎年顔を見る人もいれば、25年ぶりという人もいた。
 大学1年のとき、級友たちと3人で自分たちの教室をバリケード占拠した。1971年のことである。担任だった佐藤先生が心配して見に来られ、「けがをしないようにね」と声をかけてくださったことを覚えている。
 内ゲバがさかんだったころで、試験中に敵対するセクトに襲われた死んだ学生もいた。栗原先生は心配してくださり、ご自分の研究室で私に試験を受けさせてくださった。
 露文といえばヴォトカである。露文学者が集まると、たちまち酒瓶がずらりと並ぶのである。その飲み方は半端ではない。
 
 翌22日、露文学会の委員会に出席するため、東大にいき、前夜とほぼ同じメンバーとふたたび顔を合わせる。正門を入ったら、安田講堂からどっと学生が出てきた。ちょうど卒業式だったのである。ほとんどの学生が角帽をかぶり、ガウンを着ている。時代も変わったものである。私が卒業した頃は、ガウンを着る学生など皆無であった。
 そもそも安田講堂は閉鎖されたままで、卒業式もなかった。研究室に卒業証書(最近は学位記という)を取りに行き、助手に飲みに連れて行ったもらったという記憶しかない。その年、露文学科から卒業したのは私と、湘南高校の先生をしているK君のふたりだけだった。
 
 きょうは娘の卒業式。娘は6時に起きて美容院にいき、着物と袴をつけ、髪を結って出かけていった(らしい。私は寝ていた)。卒業式には行かなかったが、その後で、私の母、かみさんの両親を招待し、卒業式帰りの娘と待ち合わせて、横浜で食事をする。
 
 
 
 女子大生の袴姿というのは、30年前には皆無であった。私は20年ほど前に女子大の講師を2年ほどつとめたことがあり、謝恩会にも出席したが、そのころはまだみんな振り袖姿であった。
 その頃は私もまだ若く(当たり前だが)、人気講師だったので、いっしょに写真をとってくださいという女の子が何十人も行列して順番を待っていたことは一生忘れない。そういう思いをしたのはそのときだけである。
 何百人もの着飾った若い女性に囲まれるというのは、なんともいい気分でありまして、このまま女子大の教授になりたいものだと心から切望したのであったが(内田先生がうらやましい)、ままならないのが人生である(でもまだチャンスがなくなったわけではない。私はあきらめていない)。
 その女子大で教えていた頃、それを知った親友が、「へえ、よく雇ってくれたものだ。羊の群れのなかに狼を放つようなもんじゃないか」と、失礼なことを言った。そういうけしからん発言は一生忘れないのである。
3月20日(火)
 

 最近、ヒット曲が出ないようである。オリコン・チャートをみていたら、昨年の9月には「たらこ・たらこ・たらこ」が5位にランクされていた。あの歌は、どこかロシア風でなかなかいいし、マトリョーシカみたいな真っ赤な着ぐるみキューピーが赤軍みたいに進軍してくる、あのCFも嫌いじゃなかったけど、でも、ヒット・チャートにランクインしなくてもいいよ。
「千の風にのって」というのも、歌詞は「たいへんけっこう」だが、メロディは唱歌風でちょっと気持ち悪い。
 
 ヴィヴィアン・リーの最後から二作目の映画『ローマの哀愁(Roman Spring of Mrs. Stone)』を観る。原作はテネシー・ウィリアムズ。峠を遙かに過ぎ、老いの恐怖に怯える主人公の女優は、ヴィヴィアン・リー本人であると同時に、作者の自画像だ。ウォーレン・ベイティは当時、目が眩むような美男子と呼ばれていたそうだが、そんなに美男子かねえ。いずれにせよ、イタリアのジゴロの役だが、どうみてもヤンキーにしか見えない。ヴィヴィアンは離婚した直後で、49歳だが、まだまだ美しい。6年後には死んでしまうのだが。
 
 駄作の誉れ高い『トロイ』を観る。例によって3年遅れ。
 私にとって面白かったのは、トロイ側が、父プリアモス(ピーター・オトゥール)、兄ヘクトール(エリック・バナ)、弟パリス(オーランド・ブルーム)と、洗練された美男子ぞろいなのに対して、ギリシア側はアガメムノンもメネラウスも、太っていて、脂ぎっていて、欲のかたまりで、じつに醜いこと。文明人対野蛮人。これはディコンストラクティヴだ。
 もうひとつ面白かったのは、ブラピの演じるアキレスが、英雄というより「殺人マシーン」であること。パトロクロスは、映画では従弟ということになっているが、ホモだちであることは、その道の人(たとえば、うちのかみさん)が見れば一目瞭然。ヘクトルに彼を殺されたアキレスの怒り狂いかたがすごい。とはいえ、ハリウッドのことだから、アキレスはちゃんと女好きという設定になっている。
 大戦争の原因になったほどの美女ヘレネをやるのは、相当美人でないと説得力がないが、ダイアン・クルーガーだったので、すなおに納得。
 それにしても、ハリウッドを支配するユダヤ人にとっては、ギリシア人も異教徒だから、醜く描くことにはなんの抵抗もないのだろうか。
 
 どうしてそんなことを考えたかというと、というより、どうして3年前の『トロイ』を急に観ることになったのかというと、今月アメリカで封切られた『300』のことが頭にあったからである。先日、予告編をみたが、数ヶ月後には日本でも封切られることだろう。原作はフランク・ミラーの劇画。
 5千人のギリシア軍が200万人のペルシア軍と戦ったという、有名なテルモピュライの戦いを描いた映画だ。ギリシア軍の中核は、スパルタの重装歩兵300人。これがタイトルの由来だ。チョコレート屋さんの屋号にもなっているレオニダス(スパルタ王)がその歩兵の先頭に立って闘い、玉砕した。ギリシア兵士は1千、ペルシア兵士は2万死んだそうだ。史実である。ヘロドトスの『歴史』を信じるならば、であるが。
 それにしても200万人もの兵士がエーゲ海の向こうからやってきたとは、想像するだけでもすごい戦だ。
 すでにアテナイでは直接民主制が敷かれていたので、ペルシア戦争が「自由」のための戦争と呼ばれるということは周知の通り。でもそれはギリシア中心の見方で、当然、ペルシャは悪者ということになる。
 すでに『300』をめぐって、イランでは「ペルシャ人を血に飢えた残虐な民としか描いていない。これはシオニストの陰謀だ」と騒いでいるらしい。まだ観ていないから、なんともいえないが、たぶんその通りなのだろう。少なくとも反米感情を掻き立てることはまちがいない。
3月18日(日)
 

 急に思い立って、ローレンス・オリヴィエとヴィヴィアン・リーの『美女ありき( That Hamilton Woman)』を観る。ネルソンとハミルトン夫人のラブストーリー。ヴィヴィアン・リーが、頭がくらくらするくらい美しい。『風と共に去りぬ』の翌年に制作された映画で、ヴィヴィアン・リーは最初の夫と別れて、オリヴィエと結婚したばかりの頃だ。
 話は飛ぶが、日本海海戦のときの東郷元帥の「各員奮闘努力せよ」は、トラファルガー海戦でのネルソンの「英国は各人が義務を果たすことを望む(England expects that every man will do his duty.)」のパクリだ(たぶん)。
 ハミルトン夫人は下層階級の出身で、あやしげなダンサーだったという噂もあるが、絶世の美女だったために、次々に貴族のパトロンがついた。美人だっただけでなく、知的な女性だったらしく、フランス語も達者だった。後に、かのエカテリーナ・ダーシコワとも友達付き合いをしているから、きっと相当に頭のいい女性だったのであろう。ダーシコワというのは、19歳のときに暗躍してエカテリーナ女帝を誕生させ、さらにはロシアのアカデミー総裁になった、ロシア史上有数の「女傑」である。
 

 
 
 先々週、先週と、NHKで小栗忠順(上野介)を主人公にした時代劇をやっていたので、つい見てしまった。小栗上野介は横須賀造船所を造ったことで名高いが、めちゃくちゃ優秀な人物である。司馬遼太郎は彼のことを「明治の父」と呼んだが、いかにも司馬遼太郎好みの、明治維新の時代における最も優秀な人物のひとりである。
 官軍に対する徹底抗戦を唱えたが(河井継之助もそうだが、優秀な人物たちは、官軍には屈服しないという最終決断をした)、将軍慶喜に聞き入れてもらえなかったので、慶応4年、武士を辞め、群馬県に引っ込んで農業をはじめたにもかかわらず(河井継之助も北海道開拓を夢見ていた)、愚かな官軍によって、裁判なしで首をはねられてしまった。養子も殺された。
 よくいわれることだが、小栗といい、坂本龍馬といい、優秀な人物はみんな死んでしまって、生き残った頭の悪い連中が明治政府をつくったという説はかなり的を射ているのかもしれない。
 当たり前だが、中央政府(徳川幕府)にはひじょうに優秀な人材が集まっていた。日米修好通商条約を批准するためにポウハタン号で渡米したとき、小栗はまだ34歳である。
 今は昔、『NOといえる日本』という本がベストセラーになったが、小栗のえらいところは、長いこと鎖国していた国に育った人間だったにもかかわらず、堂々と外国人に向き合ったことである。
 薩長の田舎者に政治をやらせるよりも、江戸幕府を改革して新政府を樹立した方がよかったという説がある。本当にそうかどうかは私のような素人にはわからないが、確実なのは、「第一外国語」が英語ではなくフランス語になっていただろうということだ(小栗は横浜に日本で最初のフランス語学校を創立した)。
3月17日(土)
 

 おかしな夢をみた。
 日が燦々と降り注ぐガーデンにいる。どこだか、わからないが、イギリスのような気がする。私は芝生のうえにすわっている。ハンバーガー屋でハンバーガーを買い、芝生に戻ってくる。トレイに巨大なハンバーガーがのっている。パンの間に挟んであるのはライオンの口だ。口のあたりをそっくり切り取ったものだ。上下の歯がずらりと並んでいる。そのハンバーガーは直径40センチくらいだから、ライオンの口にしては小さいのだが、なぜか私はそれがライオンの口であることを知っている。食べようとして顔を近づけると、その口はまだ生きていて、口ががっと開き、こちらが噛みつかれそうになる。私はあわてて、そばに落ちていた鉄パイプのようなものでハンバーガーを何度も思い切り叩く。それでようやく死んだようなので、食べようと顔を近づけると、ライオンの口はまだかすかに痙攣している。私はすっかり食欲をなくしてしまった。そこで目が覚めた。
3月15日(木)
 

 だいぶご無沙汰しているので、実家を訪ねる。母と同居している妹は病院につとめており、7時半に帰宅してそれから食事の支度をするので、たまには楽をさせてあげなければと思い、途中で食材を仕入れ、私が夕食の支度をする。
 しゃぶしゃぶにすることにして、駅前のスーパーを覗いたら、100グラム1500円の肉がきょうは半額セール。ラッキー。このスーパー(元町ユニオン)は、東急ストアに比べるとやや高い。しゃぶしゃぶ用の肉も、いちばん安いのが100グラム700円である。
 ついでに、大量のミネストローネをつくって持っていく(ああ、重かった)。これで2日くらいは朝食の支度が楽であろう。
 
 先日録画しておいたテレビ・ドラマ『私の頭の中の消しゴム』を観る。ちなみに、このタイトルをインプットすると、ATOKは「の」の連続を警告してくる。翻訳の教科書にも、「の」は2回しか連続で使ってはいけませんと書いてある。私自身、文章を書いたり、翻訳をしたりするとき、「の」の3回連続は避けるようにしている。英語でも、...of...of...of...というのはありえない。
 それはともかく、観た理由は3つ。
(1)深田恭子を観るため。どんなときでも、彼女の姿を観て、あの素っ頓狂な鼻声を聞いているだけで、なんともいえず幸せな気分になる。どうしてこんなに深キョンが好きなのか、自分ではわからない。精神分析家ならば「娘さんに似ているからですよ」と言うであろう。たしかにちょっと似ている。でも、自分の娘と似ている女性に惚れる男なんて、いるのかしら。
(2)いま、記憶に関する本を翻訳しているため、アルツハイマーは気になるのである。ドラマの中で、しだいに記憶力が失われていく主人公は、家にある物すべてに、その名前や注意事項を書いた紙をはりつけるのだが、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』にはこれとそっくり同じくだりがある。ある村で、村人たち全員の記憶がしだいに失われていくのである。
(3)同名の韓国映画は大ヒットしたが、このドラマをみれば韓国版は観なくても済むと思った。ちなみに、オリジナルは日本の連ドラである。
 ところが、かみさんに言われて驚いたのだが、私はごく最近、この韓国映画を観たのである。そう言われれば、おぼろげな記憶がある。そう、私の頭の中にも(大きな?)消しゴムがあったのである。
3月14日(水)
 

 昨日は教授会。3月は卒業判定などがあるので、3回も教授会がある。むかしは春休みには旅行ができたものであるが、最近はやたら忙しく、ばたばたしているうちに、いつのまにか新学期が始まってしまう。
 
 2年遅れで「ミリオン・ダラー・ベイビー」を観る。娘から「暗いよ〜」と聞いていたが、たしかに暗いが、同時にある種の爽やかさがある。「ボーイズ・ドント・クライ」は、もう一度観ようという気にはとてもなれないが、あれとはずいぶん違う。それにしてもモーガン・フリーマンって、どの映画に出ても、モーガン・フリーマンを演じているなあ。レベルは全然ちがうが、木村拓哉みたい。
3月12日(月)
 

 土曜日は舞踊学会の研究会と理事会。この学会は500人くらいしか会員がいないのに、理事が20人もいるという、不思議な学会である。
 
 昨日は、前から予告していたイベントの日。5年間続いた早稲田のCOE(正確に言うと演劇博物館のCOEのなかの、舞踊コース)の最終イベントであった。
 私が企画運営した催しであったので、うまくいくかどうか、当日まで不安だったのだが、たいへん好評だったので、無事責務を果たすことができ、ほっとしている。
 学術的な催事とはいえ、公開の催しなので、お客さんがきてくれなければ困る。最初は客員教授4人がそれぞれ舞踊学の最先端の成果を発表する、ということを考えたのだが、そんなもの聞きに来るのは専門家だけであろう。舞踊学の専門家は日本じゅうで100人くらいしかいない。来てくれるのはそのうちの1割くらいであろう。それでは内輪の研究会になってしまう。
 そこで、まず第一部では、教授たちが秘蔵フィルムをもってきて、それを見せながら「ダンス映像を見る」ことの意味について論じる、ということにした。
 第二部では、対照的に、できたての「ナマのダンス」を上演することにした。
 第一部のほうは、私がふだんやっている授業みたいなものだから、準備も難しくない。何本か映像を編集すればいいのだ。アンナ・パヴロワの「ポルティチの唖娘」、ヴェラ・カラーリの「瀕死の白鳥」、ヴェラ・ゾリーナの「ゴールドウィン・フォリーズ」など、マニアでも知らない珍しいものをお見せする。
 第二部のほうは、なかなか大変。今回は、バレエ、コンテンポラリー・ダンス、日本舞踊の振付家3人に、同じ曲を使って作品を作ってもらうことにした(おお、私はなかなかの知恵者である)。まず作品をつくってくれる振付家を決め、その人に交渉する。次に「課題曲」を決める。これは私が独断で「マイ・ウェイ」に決めた。まわりじゅうから「う、ださい」と言われたが、そんなことでへこたれる私ではない。「カラオケの持ち歌なんでしょ?」と聞いてくる人もいたが、カラオケの帝王にそのような愚問を向けてはいけない。私はこんなダサイ曲は歌わない。では、いかなる理由でこの曲を選んだか。これについて語るとすごく長くなるので、省略。
 さてダンスをやるためには、舞台にリノリウムを敷かねばならず、日本舞踊のときは所作台を乗せなければならない。照明も音響も、予算の関係でプロに頼むわけにはいかないのだが、助手や大学院生、研究生の諸君ががんばってくれ、すべて無事に終わった。
 ダサイ「マイ・ウェイ」で作品をつくってくれた篠原聖一さん、北村明子さん、花柳基さん、どうもありがとうございました。協力してくれた尼ヶ崎彬先生、國吉和子先生、古井戸秀夫先生、そして「総指揮」を執ってくださった片岡康子先生、どうもご苦労様でした。そして助手と大学院生、研究生のみなさん、お疲れ様。
3月9日(金)
 

 確定申告の季節である(じつは1ヶ月近く前から始まっているのであるが)。
 私が生まれて初めて確定申告なるものをしたのは27歳のときであるから、はや30年近くにわたって、毎年この季節になると、かりかりと書類を書いているわけである。
 最初は税務署にいって、相談窓口でアドバイスを受けながら、書いた。その後はずっと自力で書いている。
 最初に確定申告をしたのはまだ大学院生のときで、年収は90万円だった。原稿料だから、そのうちの1割は源泉徴収されている。申告をしたら、9万円戻ってきた(これくらいの年収だと、ほとんど税金を払わなくていいのである)。それで申告が大好きになった。お金がもらえるんだから。
 むろん、もらえるのではなくて、すでに納めた税金が還付されるだけの話なのだが、源泉徴収されている金というのは、原稿料をもらう時点ですでに引かれているので、自分で払ったという意識はない。最初から「ないもの」と思っている。「原稿料は1万円です」と言われた瞬間、私の頭の中では9千円に自動的に変換されている。だから、還付されたときには、臨時収入としか思えないのである。
 書類をかくのは好きではないが、一日か二日かけて書けば、何万円も戻ってくる。割のいいアルバイトではないか。それで毎年この季節になると、「今年はいくら戻ってくるかな」と楽しみにしながら、ぱちぱちと電卓をたたいていたのである。
 大学を出るとき、銀行に就職するという選択肢は考えたこともなかったが、申告書類を書いていると、ふと、おれは意外と銀行員にも向いているのかもしれないな、などという気にもなる(1年に1回しかやらないくせに、ばかなことを考えるものである)。
 が、年収が人並みになるにつれ、戻ってくるどころか、追加で払わなくてはならなくなった。そうしたら、とたんに申告がちっとも楽しくなくなった。原稿料が入っても、税金分をとりのけておいたりしないで、全部ぱっと使ってしまうので、この季節になると、自慢じゃないが、一銭も残っておらず、かみさんから借金するはめになるのである。
 払うためにせっせと書類を書くのは・・・うう、楽しくない!
3月8日(木)
 

 アメリカから『フォロー・ザ・ボーイズ』が届いたので、さっそく観る。主演はジョージ・ラフトとヴェーラ・ゾリーナ。ラフトというと悪役のイメージがつよいが、この映画では英雄的な役柄だ。ゾリーナは最初のほうで少し踊りを見せる。
 1944年、つまり戦争中に作られた映画。ハリウッドのスターたちがボランティアで戦争に協力し、アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリアなどに慰問に行くという話だから、日本で公開されているはずもない。
 設定が設定だから、スターたちがぞろぞろ出ている。たとえばアンドリュース・シスターズが出ている。スリー・グレーセスっていうのは(知らないでしょうけど)、アンドリュース・シスターズの真似じゃなかったかしら。
 オーソン・ウェルズのマジック好きは有名だが、この映画でもマジックを見せる。しかも鋸で胴体を二つに切られる美女はマレーネ・ディートリッヒだ。
 ドナルド・オコナー、ダイナ・ショアらも出演している。
 
 先日、朝日新聞に、アメリカの名門大学が、学生がテストやレポートに「ウィキペディア」を引用するのを認めない措置を決定した、という記事があった。新聞社というのはけっこう怠け者で、外国の報道に飛びつく傾向がある。
 ウィキペディアに限らず、似たようなレポートがたくさんあるので、調べてみたらみんながインターネットの同じページを引用していた、という経験は多くの大学教授にあるはずだ。レポートを課すと、学生は、昔はまず図書館に行ったものだが、今はまずインターネットで検索する。何しろ部屋から一歩も出ずに調べものができてしまう。
 これを可能にしたのはインターネットというよりも、検索エンジンである。キーワードを入れるだけで、世界中のサイトをリストアップしてくれる。
 ただしインターネット上の情報にはかなりの間違いがある。多くの人はいいかげんな情報をのせている。
 もちろん、嘘を書いてある本だってたくさんあるが、それでも、書籍や雑誌の場合は複数の目にさらされているので、間違いの度合いは少ない。
 だからインターネットの場合は、その情報をなんらかの方法でチェックする必要がある。
 そんなことが書きたかったのではなかった。われわれが、いや少なくとも私が、いかにグーグルの恩恵を受けているかということが言いたかったのだ。
 本を書いていると、あるいは翻訳をしていると、調べなくてはならないことが次から次へと出てくるが、「もしインターネットが使えなかったら、どうやって調べたらいいんだろう」と、背筋が寒くなること頻繁である。
 昨日、翻訳をしていたら、ABCテレビの「おはようアメリカ」で、ダイアン・ソーヤーがエリアン・ゴンザレス少年にインタビューしたという、新聞記事が引用されていた。
 ダイアン・ソーヤーって、誰だっけ? どこかで聞いたことがある。文脈から察するに、「おはようアメリカ」のキャスターであろう。そこでグーグルにこの名前をぶちこんでみると、ちゃんとウィキペディアに項目がある。超有名キャスターだ。
 いっぽうのゴンザレス少年は、その引用によると、キューバからアメリカに密入獄しようとして、船が沈没し、さいわい救出された少年である。そういえば、そんな事件があったということを思い出す。
 同行していた母親は溺死し、その後、フロリダにいた親戚と、キューバに残っていた父親との間の親権問題になり、さらには亡命をめぐるアメリカとキューバの外交問題に発展し、キューバでは何十万人ものデモがあった。アメリカとキューバで、ひとりの少年を取り合ったのだ。
 ということくらいは記憶の片隅にあったが、一体いつ起きた事件だったのか(1999年である)、最終的にどのように解決されたのか(キューバに帰国させられた)、思い出せない。
 昔なら、図書館にいって新聞の縮刷版を片っ端からめくっていったのだろう。新聞の縮刷版には固有名詞全索引なんてついていないだろう。同時に、キューバの最近の歴史とか外交問題の本を探すのだろう。このひとつの固有名詞を調べるためにどれくらいの労力がかかったことか、想像するだけでぞっとする(昔は自分でもやっていたわけだが)。
 インターネットであちこち検索すると、一瞬にして何万ものページがヒットする。最初のいくつかのサイトで、事件の概要がわかる。さらに、日本語のサイトとアメリカのサイトを比べてみると、何が日本で報道され、何が報道されなかったのかが、見えてくる。
 私が訳している本に引用されていたまさにこのインタビューは「児童虐待」で問題にされていたのだった。ショッキングな経験をした幼児をテレビに引っ張り出して見世物にした、と。だが、日本ではそうしたことはほとんど報道されなかったようだ。
 そんなことを調べていたおかげで、昨日は1ページしか翻訳がすすまなかった。編集者には申し訳ないと思うが、翻訳というのは、これくらい手間がかかるのです。
 学生はなんでもインターネットで調べて済ます、という苦情を口にする先生が多いが、私は自分が年中それをやっているので、小さくなっている。
3月7日(水)
 

 天気がいいので、かみさんと散歩に出る。かみさんの散歩に付き合うと、下手をすると2時間近く歩かされるので、出かけるときは「忙しいから30分だけだぞ」と何度も念を押してから出かける。が、きょうも結局1時間半以上歩く羽目になった。
 自分では「老夫婦の散歩」と思っているのだが、鎌倉というところは「老」に関しては大先輩がたくさんいて、というよりご近所でうちがいちばん若いので、まわりからは「若夫婦の散歩」と見られている。私なんぞ、鎌倉では「小僧」なのである。
 岐れ道の交差点(といっても地元に人にしかわからないですよね)から、友人のMさんの家の方に路地を入っていくと、鳥居がある。これは知っていたのだが、鳥居があるということは神社があるはずだ、というわけで、階段をのぼっていくと、山の中腹に稲荷神社があった。そこからさらに上の方にハイキング・コースのような道が続いている。
 山道を歩くときの問題点は、つい、同じ道を引き返すよりも違う道を歩きたいと思い、どんどん先へ先へと歩いてしまうことだ。へたをすると、それで遭難しかけるのである。
 それにしても、道というのは、前へ前へと行きたくなるものである。
 そのあたりは衣張山(きぬばりやま)というのだが、住宅地を見下ろしながら、その尾根伝いに歩き、結局、北条高時の「腹切りやぐら」の近くへおりてきた。
 帰りに八百屋によると、グリーンピースが出ているではないか。もうそんな季節になったのか。「昨日のご飯が残っている」というかみさんの言葉を無視して、今夜は豆ご飯に決まり。私の大好物である。ついでに菜の花も買う。これまた大好物。
 この前、テレビで、とんねるずが司会をしている、タレント2人が嫌いな食べ物を当てっこするという番組をみていたら、阿部寛が出ていて、彼もグリーンピースご飯が大好物だと言っていたので、親密感をおぼえてしまった。
 
 やっと、なっちゃんの声が出るようになった。先日来、声が出なかったのである。彼女がうちにきてから10年以上たつが、こんなことは初めてである。「にゃお」という口の形をするのだが、全然声が出ないのである。獣医に連れて行ったら、やはり風邪のようだった。
 ちなみに、声に出さずに「ニャーオ」を発することを、サイレント・ミャーオという。人間はこれに弱い。猫にこれをされると、つい何でも言うなりにしてしまう。じつは、これはポール・ギャリコ『猫語の教科書』(ちくま文庫。解説=大島弓子)の原題である。訳したのはうちのかみさんだが、もとは私が頼まれた仕事であった。忙しくて、いつまでも放っておいたら、編集者にひどく叱られ、かみさんに押しつけたのである。そして、ご存じのように、大ベストセラーになったのであった。
 じつは、むかし、児童文学の某超有名作家がこの仕事を引き受けたのだが、何年も手つかずのままだった。それを編集者が奪い返してきて、私のところにもってきたのだが、私もまた手つかずのまま、かみさんにバトンタッチしたというわけである。
 
 某大学から国語の入試問題が送られてきた。私が書いたエッセーが問題に使われたのだ。以前、大江健三郎が新聞に書いていた。彼の文章は(当然)毎年数多くの大学の入試問題に使われるのだが、彼は送られてくると全部やってみるのだという。が、解けない問題、つまり自分でも正解がわからない問題がかならずあるという。
 それを思い出して、私もやってみた。たしかに、答えのわからない問題がある。「著者の言わんとするところは」と質問されて、著者にもわからないというのは困ったことであるが、でも文章って、そういうものである。
 入試問題は難しい。昔からいわれることだが、入試問題というのは、教育のためにあるのではなく、ただ選抜のため、つまり「落とす」ためだけにあるのだ。だから難しい。それにしても・・・
 
 レンタルビデオ屋でぼんやりCDの棚を見ていたら、サラ・ブライトマンの最初のCDがあったので、借りてくる。イギリスやフランスの民謡集である。編曲がベンジャミン・ブリテンだとは知らなかった。
 
 韓国映画『怪物(クエームル)』を観る。かみさんが「朝日新聞で宇田川幸洋が絶讃していたから観よう」というので、付き合ったのであるが、宇田川さんが絶讃していると聞いて、いやな予感はしていたのである。なにしろ、いちばん好きな女優はシャーリー・テンプルだという人である。
 案の定、期待はずれであった。娘を救おうとする父親の闘いは、見ていて他人事とは思えなかったが。
 それにしても、子どもの親離れに比べて、子離れのなんと難しいことか。自分がどうしてこんなに娘に執着するのか、我ながら情けないのだが、こればかりはどうにもならない。
3月5日(月)
 

 1週間ほど前、朝日新聞の文芸時評(2月26日)で、加藤典洋が四方田犬彦の長編評論「先生とわたし」(新潮)を評していた。
 四方田の評論は、読んでいないが(読む気がしない)、読まずとも、内容に関しておおよその予想はつく。その評論は「学生時代の恩師である高名な英文学者との交流」を描いたものだそうだ。
 その恩師が由良君美先生であることは、読まずともわかる。私もまた由良先生の「不肖の弟子」のひとりであるから。もっとも、私は文字通り末席を汚していただけで、清水次郎長一家ではないが、私の上座には大政・小政みたいな、富山太佳夫、高山宏といったすごい人たちがいた。四方田は、まあ味噌っかすであった。
 私は秋山さと子先生の「秘蔵っ子」でもあって、由良先生は秋山先生に対しては頭が上がらないところがあったおかげで、私は由良先生からは大事にされた。言い換えれば、それほど親しくならなかったということでもあるが。
 加藤さんは「400字詰め原稿用紙400枚を一気に読ませる筆力には感嘆する。面白く読んだ」ともちあげておいて、「欧米の最新の文学思潮に通じ、高踏な趣味人であった恩師が、やがて心身のバランスを崩し、弟子に嫉妬をおぼえ、関係を破綻させていくという背景に、著者自身が、恩師の年齢に近づくにつれ、気づいてきた、と独白されるその物語には、もの悲しいね、という感想が湧く。欧米の最新思潮に通じる学者にとっての老年は、それほどまでに貧しいものなのか」と、四方田に共感を示すような感想を素直に書き記した後、「内田樹が一昨年だったか『先生はえらい』という本を書いた。たとえどんな人士であろうと先生は『えらい』」という、じつにまともな指摘をしたあと、最後に、「弟子の『えらさ』ばかり伝わってくるのが、この卓抜な評伝の弱点である」と断じている。たいへん控えめで上品な言いまわしだが、私から見ると、これはまさしく「一刀両断」である。
 四方田犬彦を少しでも知っている人なら、この評価に深くうなずくことであろう。そう、彼は自分がいかに偉いかを書きたいがためにものを書く物書きなのである。自分が「えらい」ことを示すために、わざわざ恩師の評伝を書くような人間なのだ。
 彼が高校時代のことを書いた『ハイスクール1968』もまったく同じで、私を含め、大勢の同期生が登場するが、彼の言いたいのは自分がいかに偉かったか、ということだけなのだ。そうでなかったら、宮沢さん(矢作俊彦)や大谷さんのような先輩や、金子勝をはじめ、同期生たちがどうして一人残らず怒っているのだろうか。「先に書いたほうが勝ち」という気持ちは、わからなくもないが、どうせ書くなら本当のことを書いてほしいものである。わざわざ「これは小説ではなく、事実だ」と書いているんだから。
 私たちの怒りは、自分たちの知られたくない過去を暴かれたとか、弱点を鋭く描かれたという怒りではない。自分が偉いことを示すためだけのために、嘘までついてまわりの人間を貶めるから、みんな怒っているのだ。
 どうしてそんなことをするのかは、あらためて説明するまでもないだろう。
 もう少し自信を持ったらいいのに。恩師について書くのなら、それはオマージュでなくては「意味がない」。
3月4日(日)
 

 昨日は平凡社に行って半日打ち合わせ。後輩たちと4人で「オックスフォード版バレエ&ダンス事典」を翻訳しているのだが(今年中には出版されます)、翻訳はほぼ終わり、相互チェックをしているのである。それで気づいたのだが、プリントアウトでチェックしていくよりもパソコンの画面でチェックする方がはるかに眼が疲れる。やはりゲラというものは紙で読むものだと痛感した。
 私が日常使っているパソコンは4代目(4台目)である。最初の1台だけはCRT(ブラウン管)だったが、2台目からは液晶である。ブラウン管から液晶に変えたときは、「これで目が疲れなくなる」と喜んだものであるが、液晶も紙には叶わないのだ。
 小説をパソコンの画面で読む、という時代はたぶん来ないだろう。寝そべって読めないし。手のひらにのる電子書籍のようなものもあるが、少なくとも私が生きているうちは、読書の主流は依然として本であろう。
 (いま気づいたが、私はよく「私が生きているうちは」という発想をする。典型的な Apres moi le deluge 人間らしい。)
 
 そういえば、オペラ座の歌舞伎公演のプログラムに文章を寄稿したという話を前に書いたが、その後、担当者から「この部分をもっと詳しく書いてくれ」とか「ここは不要」とか、いろいろ注文がきたおかげで何度もメールのやりとりをすることになった。ずいぶん専門的なことをきいてくるなあと思ったら、オペラ座の担当者は舞踊学で学位を取得したという女性であった。さすがオペラ座である。
 最終稿が送られてきたが、そのフランス語に感心した。というより、フランス人の書いたフランス語と比べると、私の書いたフランス語は小学生の作文だと思った。第一稿はプロの方に仏訳してもらったのだが、かなり訂正や加筆をする必要がでてきて、いちいち翻訳者に頼んでいるわけにもいかないので、途中から自分で書き始めたのである。
 前にも書いたかもしれないが、むかし、日本の創作童話をフランス語に訳しては、弥永信美さんに添削してもらっていた。彼は、昨年100歳で亡くなられた弥永昌吉先生のご子息であり、名著『幻想の東洋』の著者である。でも結局、すらすらとフランス語を書けるようにはならなかった。始めたのが遅すぎたのであろうか。
 英語ならばほとんどイギリス人みたいな文章が書ける。イギリスにいたとき、かみさんがレポートを書くのを手伝ったことがある(内容ではなく英語で書くのを手伝ったのである。念のため)。かみさんは提出する前に、娘の家庭教師に添削してもらったのであるが、かみさんが書いた部分は真っ赤になり、私が書いた部分はほとんど直されなかった。
 英文と仏文では、発想がまるで異なる。たとえば英語は名詞中心だが、フランス語は動詞中心だ。きっと私は英語的発想でフランス語を書くからだめなんだろう。
 
 先日、NBAバレエ団のバレエ・リュス・プロを観に行ったという話を書いた。演目の一つは「(オペラ「イーゴリ公」より)ポロヴェツ人の踊り」だった。このバレエのことがふと気になって、あちこち調べだしたら、これがとまらなくて困っている。
 ご存じのように、昔は「韃靼(ダッタン)人の踊り」と呼ばれていた。これは厳密にいえば間違いであるが、まったくの間違いともいえない。ロシアでも、ポロヴェツ人を知る人は少ないはずである。それで、最初に日本語に訳した人は、「きっとポロヴェツ人と正確に訳したって、わからないだろう」と考え、韃靼人と訳したにちがいない。厳密にいえば、ポロヴェツ人というのは、韃靼人に滅ぼされた側なのだが。
 ロシアには「タタールのくびき」という語がある。ロシア人なら誰でも知っている語だ。キエフ・ロシアがモンゴル人に支配されていた時代のことを指す。「くびき」というのは「軛」と書く。要するに「首木」であるから、馬や牛の首につける木のことで、圧政を意味する。これはイーゴリ公よりもずっと後の時代だが、みんなが詳しく歴史を知っているわけではないから、イーゴリ公が征伐に出かけた遊牧民を「タタール人」だと思っている人も少なくないようだ。だから韃靼人と訳した人も、むしろ気の利いた人だったといえないこともない。
 
 韃靼というのはタタールの中国語呼称である。韃靼ときけば、誰もが「てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った」を思い出すであろう。最近は小学校の国語教科書にのっているそうだが、私が小学生のころはのっていなかった(と思う)。中学校で習ったことを覚えている。
 余談ながら、この詩には「春」という題がついている。もしついていなかったら、人はどんな季節を連想するであろうか。私は中学でこの詩を習ったとき、「春? むしろ冬じゃないの?」と思った。韃靼海峡にも春がくるのであるが(当たり前だ)、私にはサハリンとか間宮海峡というと、極寒のイメージしかなかったのである。安西冬衛は大連にいた人だから、もちろん土地勘があったのである。
 ところで、この蝶々はサハリンから大陸に渡っていったのか、それとも大陸からサハリンに渡っていったのか。私はずっと前者だと思っていたが、安西が大連にいたことを思えば、後者なのかもしれない。
 これがもし「渡って来た」だったら、これほどの名作にはならなかったかもしれない。が、作者の視点はどこにあるのだろう。映画と同じで、観ている者の位置を忘れさせてくれる、映像的な作品だということか。これまでいろんな人がいろんな分析をしているのだろうが、そこまで調べている暇はない。
 そういえば、ものの本によると、渡り鳥だけでなく、渡り蝶というのもいるのだそうだ。
 
 さて、この詩は名作中の名作であるが、中野美代子『あたまの漂流』(岩波書店)によると、「てふてふが一匹間宮海峡を渡って行った」というのがこの詩の原形だそうだ。知らなかった。また安西冬衛には、「韃靼のわだつみ渡る蝶々かな」とか、「青褪めた韃靼海峡に一匹の黒い蝶が駐つてゐた」という作品もあるという。これも知らなかった。この詩人は韃靼に対して相当に思い入れがあったようだ。中野氏は次のように書いている。
「ヨーロッパ人があれほど怖れ、きらっていたタタール人すなわち韃靼人の土地が、どうしてこうも安西冬衛を惹きつけたのか。もっとも単純にいうなら、タタールと地つづきのヨーロッパ人には、かつてタタール人に踏みつけられたという苦い記憶があり、いっぽうの日本人にはそれがないからだろう。もちろん、1274・81年にいわゆる元寇において『神風』が吹かず、モンゴル軍が上陸し殺戮をほしいままにしていたら、はなしはまるきりちがっていただろうが」
 
 問題は、誰がポロヴェツ人を韃靼人と訳したのか、ということだが、これはまだわからない。早稲田の美人助手のKさんによると(この人は日本バレエ史の生き字引である)、宝塚歌劇のバレエ教師として来日したエレーナ・オソフスカヤが1926(大正15年)に宝塚で「プリンス・イゴール」を上演しているそうだ。まずこれを調べなくてはならぬ。
 
 韃靼といえば、ここ数年、韃靼そば茶というものが大流行している。韃靼そばは、ふつうわれわれが食べているそばの100倍もルチンが含まれているんだそうだが、苦いらしい。それでそばとしてではなくそば茶として流行しているらしい(じつはそばも売っているが)。モンゴルの方で栽培されていたものらしい。もちろん日本で売っているものは日本で栽培されている。
 
 幼い頃に、「そばの足はなぜ赤い」という昔話を読んだことを覚えている。そばと麦がいるところへ、ぼろぼろの身なりをした旅人がやってきて、川を渡してくれと頼む。麦は「冷たいからいやだ」と答え、そばは乞食をおぶって渡してくれる。その乞食はじつは神様だった。麦は罰として「麦踏み」をされることになり、冷たい水のせいで足が赤くなったそばは・・・どんないいことがあったんだっけ。忘れてしまった。
 
 先に述べたように韃靼人とはタタール人のことであるが、フランス語だとタルタル人となる(先の中野氏によると、地獄を意味するタルタロスに引っかけたのだそうだ)。タルタル・ステーキ、タルタル・ソースの、あのタルタルである。タルタル・ステーキというのは、焼き肉屋でたべるあのユッケと同じようなものであるが、発生的には無関係のようだ(ユッケが本当に朝鮮料理なのかというのも疑問であるが)。
 タタール人の間では生肉を食べる風習があり、それがフランスに伝わったということになっているのだが、私の勘ではたぶんそうではなく、フランス人のことだから、肉を生で食べることを発明し、「タタール風」と命名したにちがいない。が、その証拠を探すのは容易ではない。
 ただし、遊牧民の間に、馬肉を刻んで鞍の下に入れておいて、パテ状にして食べる風習があったことは事実のようである。
 さてこのタルタル・ステーキを焼いたものがハンバーグであるが、このあたりになると、なんとか発生源を突き止められそうだ。
 エビフライや牡蠣フライにかかっているタルタル・ソースは、たぶんタルタル・ソースからの連想で命名されたのであろう。
 ここまでくると、「遙かバレエを離れて」状態に陥る。
 
 歌舞伎に「だったん」という演目がある。先日亡くなった萩原雪夫氏の作らしいが、たしか昨年か一昨年に上演されたとき、誰かが「歌舞伎版リバーダンス」と評していた。下駄をはいてばんばん踊るのである。これは東大寺二月堂の修二会(お水取り)の中でおこなわれる儀式をもとにしている。二月堂の堂内で、修行僧が大きなたいまつをふりまわし、最後に床にぶちまける、ダイナミックな儀式である。一般には、サンスクリットで「燃え尽きた」を意味する「ダッタ」というのが語源だと説明されているようだが、「韃靼人の踊り」に由来するという説もある。
 お水取りは、30年ほど前に一度だけ行ったことがある。何しろ私は寒がりであるから、「とにかく寒かった」という記憶と、男性しか内陣に入れないので、女性観光客たちが気の毒だったという記憶しかない。
 
 ボロディーンのオペラ『イーゴリ公』のもとになっているのは『イーゴリ軍記(イーゴリ遠征譚)』である(ボロディーンは他の文献も参考にしているが)。これはロシアの中世文学の金字塔である。日本でいえば、さしずめ『平家物語』。じつはイーゴリ公の遠征と源平の合戦は時代的にほとんど同じである。
 ここからまたごく私的な話になるのだが、私は大学に入って、最初の試験からほとんど放棄して、授業にも全然でなかった。それで当然ながら留年したのであるが、翌年もう一度留年しようとしていたら、佐藤純一先生から「木村彰一先生はあと1年しかいらっしゃらないから、はやく本郷に行け」と尻を蹴飛ばされて、文学部にすすんだのであった(佐藤先生は木村先生の教え子である)。おかげで木村先生に1年間習うことができた。そして、なんと木村先生のご専門である『イーゴリ軍記』を教わったのである。古代ロシア語(ロシアでは中世のことを古代という)なんて、すっかり忘れてしまったが。
 ちなみに、木村先生のもうひとつの授業は、オストロフスキーの『雷雨』の購読だった。学生が訳し、先生が注釈を加えていくのである。私は図書館で古い翻訳をみつけ、それをアンチョコにしていたのであるが、「勧工場」というのを「かんこうじょう」と読んで恥をかいた。先生は、こちらがアンチョコを見ながら訳しているのを疾うにお見通しで、「きみ、それはカンコウバと読むんだよ」と教えてくださった。
 
 「ポロヴェツ人の踊り」は、オペラ『イーゴリ公』の一部なのであるが、1909年にディアギレフがロシア・バレエをパリにもっていって、パリジャンたちを仰天させたとき、この踊りの場面だけを上演したので、世界的に有名になった。その後も多くのバレエ団がレパートリーにしている。
 オペラが1890年に初演されたときは、『白鳥の湖』第2幕や『くるみ割り人形』で有名なイワノフが振り付けたのであるが、パリ公演のときの振付はフォーキン。
 このバレエが人気を博した最大の理由は、男性の勇壮な踊りだからだ。それまでのフランスのバレエはまさに宝塚状態で、ほとんど男が出なかった。男の役も女性が踊っていたのだ(だからリフトなんてできなかった)。
 だがもうひとつ理由がある。その踊りの前に娘たちの踊りがついていて、そのメロディが有名になったからだ。
 小学校のときに習ったような記憶がある。家で聴いたのかもしれない。小学生の頃は「ペルシアの市場にて」の途中に出てくるきれいなメロディと混同していて、どっちがペルシアでどっちがダッタン人だか、わからなかったという記憶がある(音痴だったからであろう)。さらに脱線すると、「ペルシアの市場にて」の作曲家ケテルビーは「惑星」で有名なホルストの弟子で、いわばB級クラシックの大家。まさに「オリエンタリズム」の作曲家で、「君が代」を使った曲も書いている。
 さてその後、このメロディはアメリカン・ポップスのスタンダード・ナンバーになった。というのも1954年だったか、全米ヒット・チャート第1位になったのである。昨年、この曲はJR東海のコマーシャルに使われていた。聞きたいかたはこちら
 ご存じ、「ストレンジャー・イン・パラダイス」である。これをもじったのが、ジム・ジャームシュを世界的に有名にした作品のタイトル、「ストレンジャー・ザン・パラダイス」である。
 「ストレンジャー・イン・パラダイス」は、ミュージカル『キスメット』の中の曲で、このミュージカルはなんとボロディーンの曲をアレンジして使っている珍しいミュージカルである。キスメットというのは「運命」を意味するトルコ語だそうで、そういえば、ポロヴェツ人というのはテュルク(トルコ)系である。
3月1日(水)
 

 本日は卒業判定教授会と、委員会がひとつ。ああ、春「休み」とういのは名ばかりで、この季節は本当に忙しい。
 夕方、娘と横浜駅で待ち合わせてご飯をたべる。彼女は来週友達とドイツに遊びに行くというので、鮨か天ぷらをご馳走する予定だったのだが、寿司屋のカウンターが埋まっていたので、懐石料理をたべる。ゆっくり食べようかと思っていたのだが、娘は早く家に帰って「えらいところに嫁に来てしまった」が見たいというので、ふつうに食べて、そそくさと帰宅する。
 娘は下北沢から今度は芝浦に引っ越したそうである。
 
 この日記に限らず、私はものを書いているうちにかならず脱線するので(ひどいときは最初の1行からしてすでに脱線している)、時々、書き終わった後、最初に書こうとしたことを一言も書いていなかったことに気づくことがある。
 先日、熊川哲也の「白鳥の湖」を観に行った話を書いた。そもそもこれを観に行ったのは、康村和恵のオデットを見てみたいと思ったからである。彼女は、昨年は怪我でずっと踊れなかったそうである。いつだかバレエの会場であったとき、いきなりほとんど泣きつかれるように、「また踊れるようになったので、絶対に見に来てくださいね」と言われていたのだが、そのときは(「二羽の鳩」であったが)彼女が踊る日には行けなかった。
 で、彼女のオデットはどうだったかというと、結論的にいえば、満足すべき出来ではなかった。一言でいえば「ぎくしゃく」していた。
 彼女は抜群のプロポーションの持ち主であり、恐るべきテクニックの持ち主でもあり、また恐ろしいほどの表現力の持ち主であるが、残念ながら今回は不発に終わったようだ。例によって、オディール役の荒井祐子は安定している。この子は、チンコロ姐ちゃん体型(といっても若い人は知らないだろう)だが、「強い」バレリーナである。東京バレエ団時代から大好きなダンサーのひとりだ。
 
 さて、2月が28日しかないという事実を切実に実感するようになったのは、月刊誌に連載を始めてからである。が、今月もなんとか原稿を入れることができた。やれやれ。
 
 とくに個人的に「ジョニー・デップ特集」を組んだわけではないのだが、ここのところ立て続けにデップ主演の映画を観ている。一昨日はBSで『エド・ウッド』をやっていた。「映画史上最低の監督」として有名なエド・ウッドの伝記映画だ。「史上最低」として歴史の残る映画監督というのも凄い。
 ティム・バートンが愛情を込めてとったオタク映画だが、監督の眼差しが優しすぎて、映画としての出来はあまり良くない。バートンの愛情はじゅうぶん伝わってくるが。
 「セックス・アンド・ザ・シティ」のサラ・ジェシカ・ジョーンズが出ている。うちの娘はあれを全巻買って繰り返し観ていたが(いったい私の娘は何を考えているんだろうか)、私のほうは、あんな顔の長い女性がよく女優になれたなあと思いながら、そばで観ていたものである。同じティム・バートンの『マーズ・アタック』では宇宙人に手術されて、首から下が犬になっていたなあ。
 
 3日前には、かみさんが前から見たがっていた『リバティーン』を観る。『チャーリーとチョコレート工場』の前年に撮られた映画だ。チャールズ2世時代の「猥褻詩人」ジョン・ウィルモットの伝記映画。この詩人、梅毒に罹って33歳で死んでしまった。
 うちのかみさんはゲイ、というよりボーイズ・ラブに目がない。ちょっとでもその気のあるものは、かみさんの視線を逃れることはできないのである。この映画の主役はいわゆる女たらしなのであるが、男性が相手でもオーケーなのである。
 ちなみに、うちのかみさんは、仲のいい男どうしというのはすべてゲイだと思っている。
 さて、公開当時、「ジョニー・デップがシナリオの冒頭3行読んだだけで出演を決めた」というのが宣伝コピーのひとつだった。
 最近そういう映画が多いが、時代考証がかなりリアルで、17世紀ロンドンの汚くていかにも臭そうな雰囲気がよく伝わってくる。チャールズ2世を演じたマルコヴィチがいい。もともとマルコヴィチが舞台で主役を演じた芝居の映画化だそうで、それでマルコヴィチが映画のプロデューサーに名を連ねている。
 そういえば、私はむかしから時代考証というのが大好きだった。その方向に進もうかと思ったこともあったほどだ。たとえば江戸時代の舞台照明はろうそくだから、歌舞伎は昼間やっていたのであるが、そういうふうに、現代の常識(たとえば舞台は明るい。芝居は夜に観に行くもの)が時代を遡るといかに通用しないかを考えるのが、今でも大好きである。
 バレエだって、電気照明の前はガス灯で、裸火だったから、その火が衣裳に燃え移って全身火傷で死んだバレリーナもいる。
 「リバティーン」も、キューブリックの「バリー・リンドン」に倣ったのか、ひじょうに低い照度で撮影しているため、映像が粗い。
 梅毒に罹ると鼻がかけたりするらしいが、この映画の主人公のモデルになったウィルモットも鼻がかけて、象や馬がつけているみたいな金具をつけて隠し、顔に出来た腫瘍は化粧で隠していたという。
 
 そのあと今度は『パイレーツ・オブ・カリビアン デッドマンズ・チェスト』を観る。評するほどの映画ではないが、やはりジョニー・デップでもっている映画だ。でもこの映画のデップは、徹底的にヒュー・グラントの物まね。ふたりとも大好きだ。ヒュー・グラントはどんな映画に出てもヒュー・グラントだが、ジョニー・デップは一作ごとに違うから恐ろしい。
 
 →最新の日記に戻る