| 2007年1月の日記(↑時間軸) |
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1月31日(月)
腰の具合がだいぶよくなってきたので(だいたい3日ほどじっと寝ていれば治るのである)、上野までルジマトフとシェスタコワの「ジゼル」を観に行く。きょうのシェスタコワは、ものすごく気合いが入っていた。俗な言い方だが、「鬼気迫る」演技であった。ルジマトフも相当に本気のように見えたが、本当のところはよくわからない。彼は老獪で、あまり気合いが入っていないときでも入っているようなふりができるからである。 「プロはいつでも気合いが入っているのではないか」といわれるかもしれないが、そんなことはない。「きょうは本気じゃないな」と感じることだってある。だがきょうのシェスタコワは、終わった後もしばらく「あちら」に行ったきりだった。だがその表情はふつうのジゼルとはちがっていた。 シェスタコワのジゼルをみていて、ひとつ新たな発見をしたように思った。 ジゼルは第一幕の最後で、恋人アルブレヒトに裏切られたことを知り、発狂して死ぬ。そして第2幕では死者として登場する。「死んでしまった彼女はもうすべてを許している。恨みは消え、愛だけが残り、それで彼女はアルブレヒトを死霊たちの魔手から救う」というのがふつうの解釈だ。だいたいバレリーナもそういう解釈で踊っているし、観客もそんなふうに解釈している。だが、死んだとたんに、そんな簡単に「菩薩」になるものだろうか。第2幕のアルブレヒトは自分のしたこと(純真な乙女心をもてあそんだこと)を後悔し、苦悩しているが、ジゼルのほうも、仏のようにすべてを許してしまったのではなく(ヨーロッパの女性が仏みたいに簡単に「水に流す」だろうか?)、なかなか彼を許すことはできず、でも「許さなくては」と自分に言い聞かせ、なんとかアルブレヒトを許そうとしているのかもしれない。彼がしたことを考えてみれば、そう簡単には許せないはずだ。つまり、彼女はアンビヴァレンツ(相反感情)に苦しんでいるはずだ。「きっと彼女は死んで、すべてを許したにちがいない」という解釈の底にあるのは、「すんなり許してもらいたい」という男の願望だ。 ではどうしてジゼルが自分に「許さなくては」と言い聞かせるかといえば、それは許さないと彼女自身が救済されないからだ。ヴィリたちは、男を許すことができず、復讐の鬼になっているため、救済されず、地縛霊となってさまよっている。そもそもヴィリというもの(スラヴ地方の民間伝承)は、女を裏切ったらそう簡単には許してもらえないだろうという男の恐怖心がうんだ妖怪である。ジゼルは、新人としてヴィリたちの群れに迎え入れられるのであるが、結局は彼女たちの仲間には入らず(だいたい首領のミルタに逆らって、アルブレヒトを守る)、ジゼルだけは他のヴィリとちがって「成仏」するのである。 朝日新聞社から蔵研也著『リバタリアン宣言』という本が出るそうで、その本をめぐって、朝日のPR誌「一冊の本」で松原隆一郎と香山リカが対談している。リバタリアン libertarian とは「自由尊重主義的」の意味であるが、響きがオバタリアンと紙一重である。 ハイエクの名とともに、最近よく耳にする言葉である。というのも、自由尊重は、身近なところでは格差容認・規制緩和・民営化などを意味するからである。世の中どうも「平等」に嫌気がさしてきたらしい。ソ連崩壊とともに、「社会主義はまちがっていた」というのがなんだか真理のようになってしまったし。どこかの国の首相は教育の場にも市場原理を導入したがっているし。 私は精神的隠居を宣言してから、政治経済社会に関してはいっさいものを書かないことを心に誓ったが(だいたい何も知らないんだもの)、だからといって何も考えないわけではない。ただ、考えるときに、論理的に考えるのではなく、すべて「匂い」で決めることにしている。リバタリアンというのは、私のきらいな臭いを発している。自由とか自己決定とか自己責任というのは、私にいわせれば「自己崇拝」にもとづいている。私はフロイト崇拝者なので、自己決定などというものを基礎に置いた思想は信じないのである。自己などというものは社会によって作られる、ということを信じている私は、ちょっぴりはマルクス主義者である。 |
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1月30日(火)
「007は二度死ぬ」を観る。むろんデジタル・リマスター版である。丹波哲郎と浜美枝と若林映子が出ており、日本を舞台にしている。なつかしや、当時、浜と若林が途中で役を交代させられたという話を、リアルタイムで芸能ニュースで知ったものである。ジェイムズ・ボンドが日本人に変装して敵陣に侵入するという(無理だよ)、お馬鹿な映画だ。007シリーズ中、もっともおばかな映画のひとつである。「国辱映画」のリストにも堂々入選するであろう。 主題歌をうたっているのがナンシー・シナトラであることや、撮影が「アラビアのロレンス」や「ドクトル・ジバゴ」のフレデリック・ヤングであることは、今回はじめて知った。 なんでこんなものをみたかというと、かみさんがいまロアルド・ダールの伝記を訳していて、資料として観る必要があるというので、お付き合いしたのである。そう、この映画の脚本はダールなのである。『チャーリーとチョコレート工場』の、あのダールである。そう思ってみると、冒頭の、ロケットが人工衛星を飲み込むとか、カーチェイスの最中にヘリコプターが巨大な磁石で車を釣り上げるといった、子どもっぽいアイデアはいかにもダールらしい。ダールは典型的な肛門サディズム作家であるが、この作品でも、「チョコレート工場」同様、「穴」に執着している。 腰の痛みが少しひいたので、起き上がって原稿を書く。きょうはパリ・オペラ座のプログラム用に、六代目とアンナ・パヴロワの出会いについて書く。フランス語で書けないわけではないが、時間がかかるので、今回はプロに仏訳してもらうことにする。 ぎっくり腰は、学生時代以来、これでもう7回目くらいだ。だいたい5年に一度くらいやってくる。ぎっくり腰は癖になるというが、その通りである。私の場合、背骨のS字曲線の曲がり具合が足りないために腰に負担がかかるのだそうだが、要は、腹筋と背筋の鍛錬を怠ると、なるのだ。しかも、かならず冬にやってくる。 |
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1月28日(日)
うう、風邪とぎっくり腰でついにダウン。月末までにあと40枚原稿を書かねばならないというのに・・・いててて。 昨日は私のゼミ(通称「晶ゼミ」)の同窓会。一期生が2人、二期生が2人、三期生が6人、現役が2人で、ぎりぎり研究室におさまる。つまみはデニーズのパーティ・セットと鮨の出前、それに香織と志穂が買ってきてくれたエスニック料理。用意した酒はきれいになくなった。 準備してくれたのは4年生のリュウとレオ(これ、ニックネームではなく本名である)。 もちろん、みなさん社会人である。職種はさまざまで、●ーセンの副社長秘書(みんながギャオを知らないので、がっかりしていた)から、エッチ系ではないマッサージ嬢まで、いろいろ。営業マン(レディ)が数人。いちばん幸せなケースはベッキーであろう。甘い物に目のない彼女はお菓子会社に就職。試食品に囲まれ、夢のような生活をしているそうな。当然、在学中よりも数キロ増大したようにお見受けした。
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1月26日(金)
月曜日の夜の「スマップ×スマップ」にイ・ヨンエが特別出演することは知っていたのだが、出かける予定があったので、ビデオに録画しておいて、昨日観た。イ・ヨンエを観ている私を観察している人がいたとしたら、きっと気味が悪くなったことであろう。頭はからっぽになり、目はうつろ、口をあんぐりあけて、だらだらよだれを垂らして観ていた。あまりの可愛さに、途中で3回ばかり気を失いかけた。いや、本当の話である。 現代の日本に、こういう女優はいない。たまたまいないのではなく、構造的にいないのである。一言でいえば「昔風」なのである。昔の吉永小百合が現代に突然出現しても人気スターにはなれないであろう。それと同じことである。 いまの日本では「チャングム」のようなベタなドラマは絶対につくれない。企画段階でボツである。そのことと同じである。 昨日は朝から晩まで修士論文の口述試験。今年修論を提出したのは6人。国際文化研究科だけあって、テーマは「戦前の蒙古における日本語教育」「バスクの独立運動」「ソ連のGTO制度」「建築家ファン・デル・ローエについて」「スロヴェニアの独立運動における民族自決論」「旅におけるフロー体験」など、じつに多種多様。レベルの高い力作もあれば、「未完成品」もある。ひきつづき博士課程にすすんで研究者になろうという人はいないようだ。 |
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1月24日(水)
山岸涼子さんが「テレプシコーラ」第10巻を送ってくださったので、9巻を読み直し、続いて10巻を一気に読む。これで第1部完結。雑誌連載はすでに11月号で終わっている。 山岸涼子の絵のうまさと心理描写は、月並みな表現だが、他の少女漫画家の追随を許さない。 これまでのバレエ漫画は、基本的にはスポ根ものと変わらない。テクニックがすべてだったのである。だが山岸涼子は「テレプシコーラ」で表現力と創作というテーマを導入した。 哀しみと希望が相半ばする結末だ。これで終わってしまうわけにはいかない。第2部が待ち遠しい。山岸さん、はやく始めてくださいね。 |
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1月22日(月)
大学で試験監督。入試ではなく、自分の学年末試験の監督である。 夕方、かみさんのご招待で、ミュージカル「スウィーニー・トッド」を観に行く。市村正親と大竹しのぶの主演で、演出が宮本亜門であるから、面白くないわけはないのだが、実際、ひじょうに面白かった。以前、同じソンドハイムの「イントゥ・ザ・ウッズ」を観たとき、宮本亜門の演出の才能に感心したが、彼はつねに及第点はクリアする手堅い演出家である。市村も安心して観られるミュージカル俳優だ。大竹しのぶは、ミュージカル初出演だそうだが、腹黒くて図太いおばさん役を見事にこなしていた。 ご存じかと思うが、1975年初演の作品。18世紀末のロンドン。判事(要するに悪代官)が床屋の美しい妻に横恋慕し、その夫を無実の罪でオーストラリアに流刑にしてしまう。15年後、オーストラリアから逃げてきた夫はスウィーニー・トッドと名乗り、復讐を企てる。彼が留守の間に、妻は悪代官に犯され、自殺。赤ん坊だった娘は悪代官に引き取られ、養女として育つが、いま悪代官はその養女を自分の妻にしようとしている。 床屋の階下はパイ屋で、そのおかみさんが大竹しのぶ。このおばさんは、トッドが殺した男たちの肉でパイをつくって、これが大評判になる。どんでん返しがあって、最後の最後まで楽しめるのだが、かなり陰惨な話で、ミュージカルの題材としてはとてもふさわしいとは言い難いものであるが、それでも見せてしまうところがすごい。 |
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1月21日(日)
金曜日は、ふだんは在宅研修日、つまり家でお仕事をする日なのだが、40分の会議のために往復4時間かけて大学へ。すまじきものは宮仕えとはよくいったものである。 土曜日は早稲田で映像コースの研究会。「幻の映像」が見られるというので、参加者が会場に入りきれないくらいの大盛況。昭和初期にヨーロッパで公開された「ニッポン」や、小松弘大先生が中国で発見したスタンバーグの「女の一生」の断片を見せていただく。これは文字通り世界的大発見だそうである。 終わった後、神楽坂で打ち上げ。舞踊コースのCOE最後のイベントは3月11日(日)。映像コースほどの集客は望めないけど、でもみなさん、ぜひ来てください。ビッグなアーティストたちが登場します。 けさ、朝刊を開いて、思わず爆笑。スーパーから納豆が消えた原因となった「あるある大事典」の、「納豆を食べると痩せる」という話はまったくのでっちあげだったそうな。私は最初から信じていなかった、というよりダイエットには興味がないのだが、日本中の善男善女がせっせと一日2パックずつ納豆を食べていたかと思うと、すごくおかしい。日本人を洗脳するのは簡単なのだ。それにしても平和な国である。 |
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1月18日(木)
昨日は新宿までエヴァ・ジェルバブエナのカンパニーの公演を見に行く。フラメンコである。エヴァは数年前にはものすごい美人だったのだが、ぐっと老けた感じがする。踊りの方も。 フラメンコの公演はバレエよりも男性観客が少ない。客席はほとんど「フラメンコを習っています」という感じの女性で埋まっている。そしてフラメンコを習っている女性はみんな感じが似ている。顔も似ている。ほとんどの人が細面で、丸顔がひじょうに少ない。そして、ちょっときつそうな、ちょっと男っぽい顔をしている。 きょうは劇団四季の「コンタクト」を観に行く。「歌のないミュージカル」である。私の好きなミュージカルはだいたい50年代のハリウッド・ミュージカルである。歌あり、踊りあり、ドラマあり、笑いあり、涙あり(あまりないが)。だからミュージカルといえば、歌と踊りと芝居からなる総合芸術というイメージがつよいのであるが、90年代以降、「オペラ座の怪人」みたいな、擬似オペラともいうべき、ダンスのないミュージカルが主流になった。だから「コンタクト」みたいな、歌のないミュージカルというのは少数派だ。内容も、「ライオンキング」とか「オペラ座の怪人」に比べたら地味だ。 主役を踊ったのは新国立劇場のプリマである酒井はな。彼女にとっては畑違いのダンスだが、バレリーナ独特の存在感を見せた。 そのあと、かみさんと待ち合わせて新大久保まで韓国料理を食べに行く。韓国料理、インド料理、中華料理、タイ料理の店が軒を並べる新大久保にいくたびに、かみさんは「あたしはここに住みたい」とのたまうのである。サンナッチ(生きているタコの足)、ケジャン(カニの唐辛子漬け)、サバ大根(煮物)、牡蠣のチヂミ、カムジャタン(豚の骨とジャガイモの鍋)を食べ、二人して「ああ苦しい」と言いながら、帰りに韓国スーパーでゴマの葉のキムチを買って帰る。これは娘の好物である。娘はたまにしか家に帰ってこないのであるが、きっとこのキムチの匂いに吸い寄せられて、近々ご飯を食べに来るであろう。 不二家が倒産しそうである。おお、かわいそうなペコちゃん。まさしく雪印の二の舞である。雪印がなくなってしまったときも、なんだか寂しかったが、不二家がなくなるのもさびしい。なんだか自分の子ども時代が消えてしまうような気がするからだろう。だから、期限切れの原料を使っていたということが報じられ、各スーパーがじつに迅速に「不二家製品の扱い中止」を発表したときには、「おい、ちょっと待ってくれよ。それはちょっと大げさなのでは? われらが不二家をそんなにいじめないでよ」と思った。 だが同時に、期限切れの材料を使っていたというのは、社内のごく一部の人が勝手にやっていたのではなく、「組織ぐるみ」の犯行だろうという予感もした。事実はその通りだった。実際に食中毒も発生していたという。雪印もそうだったが、こういう組織は根から腐っているのだ。いや根から腐っている企業は、雪印や不二家だけではないだろう。 腐っている組織は対応も遅い。私が経営者だったら、億単位の金がかかっても、3日間連続くらいで新聞に全面広告を打って、「ごめんなさい」とひたすらあやまり、「今後は絶対にこういうことはしない。もううちの製品は安全ですから、安心して食べてください」と訴える。でも、腐った組織の言うことを誰が信用してくれるだろうか。 |
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1月14日(日)
新聞でも報じられたように、日本全国の食料品店、スーパーから納豆が姿を消した。どこでも「売り切れ」なのである。すでにおかめ納豆とミツカンは「出荷が追いつかず申し訳ありません」という謝罪広告を新聞に出した。 昨日、明日(つまり今日のこと)はキムチ鍋にしようということになり、かみさんが買い物に行ったのだが、「納豆がどこにもない」と言って帰ってきた(キムチ鍋には納豆と味噌を混ぜると旨さ倍増である)。 うちではいつも冷蔵庫と冷凍庫にたくさん納豆を貯蔵しているのだが、ちょうどそれが切れたので買いに行ったのであるが、このぶんではしばらくの期間なかなか入手できないかもしれない。困ったことである。オイルショックのときのトイペ騒動を思い出すが、そういえばココアや寒天が店頭から姿を消したこともあったっけ。 テレビ番組「あるある大事典」の効果である。たまたま私も見ていたのだが、その内容は要するに「納豆を食べると痩せる」というのだ。今回の「みそ」は、一日1パックでは足りない、朝晩1パックずつ食べると効果が出る、というところである。 この番組をみていた、あるいはそのことを伝え聞いた日本中の主婦がスーパーに走ったのである。「これまでの2倍食べなくちゃ」と焦ったのである。なんだか、味の素の穴を大きくしたら売り上げが倍増したという話に似ている。 ご存じない? では教えてあげましょう。むかし、味の素の売り上げが伸び悩んでいたことがあって、社長やら重役が会議で知恵を絞っていたのだが、なかなか名案が出ない。そのとき誰かが「穴を大きくすればいいのでは?」と提案した。その通りに実行したら、たちまち売り上げが伸びた、という話である。 ちなみに、味の素は植物からつくられているということになっているが、石油精製品だという説もある。 さて、納豆が体にいい、という番組はこれまで山ほどあった。というか、テレビはほとんど一年中「納豆は体にいい」というメッセージを発し続けている。納豆業界の陰謀ではないかと思われるほどである。 納豆が体にいいというのは、たぶん本当である。すばらしい食品である。私自身、納豆は大好きで、牛肉と納豆のどちらをとるかと聞かれたら、迷わず納豆と答える。たとえ健康食品でなくとも、あるいは多少からだにわるくとも、毎日食べたいものである。 だが今回、主婦たちは「体にいい」から納豆を買いあさったのではなく、「痩せる」からスーパーに走ったのである。テレビ業界で、あるいは女性雑誌業界で、ダイエット特集を組めば視聴率や売り上げが倍増することを、知らない人はいない。「健康」よりも「ダイエット」のほうがはるかにインパクトが強いのである。女性雑誌なんて、広告のほとんどはダイエットと脱毛である。多くの女性は、健康でいるよりも、多少病気でも痩せているほうを選ぶのだ。 ダイエットは、日本(アメリカでも同じだが)のほとんどの女性の強迫観念になっているが、これはつまり、ほとんどみんなが飽食しているということに他ならない。年じゅう飢えている人はダイエットなどということばじたいを知らないだろう。 水を飲んでも太る体質だ、という人がいるが、それは大嘘である。太っている人はその太っている体を維持するために、痩せている人よりも多く食べる必要がある。 世界の人口の半数以上が飢えているというのに、さんざん食っては、「痩せたい」と悩んでいる女性たちがいるのだ。バカみたいな話だが、その意味では、この世界は「ばかみたい」である。痩せたければ食べなきゃいいのに、と思うのだが、そうはいかない? 私がむかし、かのクイーンアリスの石鍋夫人といっしょに訳した『美食の文化史』の著者は、人間は昔から「いかに太らずに飽食するか」ということに頭を悩ましてきたと書いている。ローマ人は食べては吐き、吐いては食べた。 私はたいへん食に執着する人間であり、どんなに忙しくてもカップラーメンで済ますということができない人間であるから、たとえ太っても旨いものを食べたいと思っているのだが、私のみるところ、最近の若者は、いや若者だけでなく、私の世代の人間でも、食に執着しない、というか、何を食べてもあまり違いを感じない人間が増えているような気がしてならない。 実際、味覚障害者も増えているようである。居酒屋のメニューというのは、どこも似たり寄ったりで、同じような味がする。作り方がマニュアル化されていて、フリーターが作っているのだから、当たり前だ。 それで、私のようなグルマンは、つい、痩せたいなら食べなきゃいいのに、と思ってしまうのである。 それにしても、どうしてこんなに女性は痩せたがるのであろうか。女性が痩せたがるのは男性のためではない。アンケート調査が示しているように、痩せた女性が好みという男より、ふっくらした女性の方がいいという男の方がずっと多い。でも男の好みなんか、関係ないのだ。女は「女どうしの闘い」のために必死に痩せようとする。彼女たちが気にしているのは男性の視線ではなく女性の視線である。「いや、女性の視線を媒介にした男性の視線だ」というフェミニストもいたようだが、それは嘘だ。現代では、痩せた女性の方が太っている女性よりもステイタスが上なのである。ばかばかしい話だとは思うが、こういうことは、そう簡単には変えられない。美という漢字は、羊が大きいって書くんだがなあ。 男の場合、これに相当するのが頭髪だ。白髪のほうがハゲよりもステイタスが上である。この男性観が逆転すれば、みんなが競ってはげるようになるであろう。居酒屋では男たちが自分のハゲ具合を自慢し合うのである。それはきっとすてきな社会だと思うが、そういう社会はなかなか来ないだろうな。 |
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1月13日(土)
これから高さ20センチくらいのレポートを読んで採点し、試験の採点をやり、修論を読み、大学院の入試があり、学部の入試があり・・・例年、4月までは走りっぱなしである。 昨日、研究室で、雑誌「ダヴィンチ」の取材を受ける。山岸涼子大先生の「テレプシコーラ」第1部が完結した。その関連のインタビューである。尊敬してやまぬ山岸さんのためであるから、二つ返事でお引きしたことはいうまでもない。インタビューは2時間半に及んだが、どうもバレエのことを話し始めると止まらない。 その後、さいたま劇場まで「アクラム・カーン&シディ・ラルビ・シェルカウイ」を観に行く。「すごい」ダンスだと勝手に想像していたが、むしろ「面白い」ダンスであった。カーンはバングラデシュ系イギリス人、シェウカウイはモロッコ系ベルギー人。いってしまえば、最近テレビを占領しているお笑い芸人がふたりでコントをやっているようなものだが、昨今のお笑い芸人の芸を見て笑ったことのない私には、こちらのほうがはるかに面白い。最後は、バングラデシュ風の歌とユダヤ民謡が妙に共鳴して、聞いている者の胸を打った。 このHPが一時的に見えなくなっていた。1月5日にドメインの契約期間が切れたのだ。1週間だけ「おまけ」してくれたわけである。どうして急に見えなくなったのか、最初は訳がわからなかったが、調べてみたら昨年の8月から何度も更新のお知らせがきていたのだが、それをわがメール・ソフトはすべてスパムとして勝手に処理していたため、気づかなかったのである。 5年後にはそんなことをすっかり忘れているだろうから、また一時的に見えなくなるという事態が繰り返されるであろう。 |
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1月10日(水)
手帳を開くと赤字で書いた「締め切り」という文字がずらりと並んでいる。新年早々、困ったことである。もっと困ったことは、どれくらい忙しいか、自分でよくわかっていない、というか、どこか見て見ぬふりをしているということである。冷静に考えたら到底こなせない仕事を抱えているので、怖くて直視できないのである。だから内田先生みたいにバリバリ仕事をすることができないで、ジャムを作ったり、スープを仕込んだり、漬け物をつくったりしている。おばあさんみたいな生活だ。「おじさんのおばあさん化」。 今年から来年にかけて最大の国際問題は、アメリカがイランと戦争するかどうかという問題であろう。絶対に戦争になると予言している人もいれば、ならないと言う人もいる。素人の私には想像がつかないが、いまのイラク情勢をみるかぎり、アメリカにはイランと戦争する余裕はないだろう。それを見越して、イランの、なんだかホームレスのおじさんみたいな顔をした大統領は、核兵器開発をどんどんすすめると、アメリカを正面から挑発するような言動を繰り返している。ずいぶん強気である。となると、アメリカにも意地があるから放っておけないのだが、余裕がないので、たぶんイギリスとかNATO、ついでに日本などに、アメリカの代わりにイランを攻撃するよう、いま働きかけていることだろう。 受験業界の超有名講師である友人から、面白い話をきいた。私が、年々学生の学力が落ちていると話したら、彼は「そんなことはない、ちゃんと昔と同じ話が出来る」というのである。ただし、彼がいっているのは、東大を受ける、偏差値的にいえば受験生の中の、いちばん頂上の小集団である。彼に言わせると、トップクラスの受験生の学力は落ちていないというのである。 だとすると、彼らエリートたちと、それ以外の一般受験生との間の距離が着実に開いているということだ。 問題は、これによってエリートたちがいい意味でのエリート意識(一種のノブレス・オブリッジ)をもつかどうかである。同時に、彼らが、戦後教育の最大の問題である「悪平等」をどうにかできるか、ということだ。 |
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1月7日(日)
ご町内の神社仏閣へ初詣にいく。すでに先日かみさんの実家の近くの寺に詣でたのであるが、自分の住んでいる場所のいわば「氏神」さまに詣でないと気持ちがわるい。 ![]() ![]() まずは鎌倉宮(↑)。またの名を大塔宮という。薪能のメッカとしても知られるが、「大塔宮」というのは後醍醐天皇の息子、護良親王の呼び名である。鎌倉では「もりなが」と呼んでいるが、「もりよし」という説もある。大塔宮も、一般には「おうとう」と読むらしいが、地元では「だいとう」と呼んでいる。 歴史上、斬首された唯一の皇族だそうだ。名誉だか不名誉だか、よくわからない。この場所にはかつて東光寺という寺があったが、そこに小さな洞窟があって、昔からこの穴が、護良親王が足利直義に捕らえられていた土牢だと言われていた。本当かどうかはわからない。「太平記」にそのように書かれているので、それを読んだ誰かが「これがその土牢だ」と言い出したのかもしれない。それはともかく、明治維新の後、明治天皇が、護良親王を祀るためにこの神社を建立したのである。だから古い神社ではない。神社本庁には所属おらず、独立採算経営なので、いろいろ新しい商売を考え、最近は「厄落としの盃投げ」というものをやっている。かわらけ(盃)に息を吹きかけて、体からわるい物を出し、それを大きな石にぶつけて割るのである。一回100円。これはストレス解消になかなかよろしい。 さて護良親王は、長いこと土牢に入れられていたために足は萎えていたが、気丈な人物で、斬首しようとした侍の刀に噛みついたという。侍は怖くなって、斬った首を、いま私が住んでいるあたりに捨てたのだそうだ。 ちなみに、護良親王は足利直義の家臣に殺されたのであるが、そもそも彼は父に反抗したために、後醍醐の差し金で捕らえられたのである。父親に殺されたようなものだ。ともあれ、彼は建武中興の英雄であるから、関東や東北には護良親王生存伝説がつたえられているという。私は聞いたことがないが。 さて、首を捨てた場所、つまりいま拙宅のあるあたりには、当時、理知光寺という寺があった(それで郵便番号が普及する前は、うちの住所は「二階堂理知光寺谷」といった)。その理知光寺のご住職が、護良親王の首を手厚く葬ったそうだ。それが、わが家の斜め前にある護良親王の墓である。ただし「太平記」には、「南の方」という女性に弔われたと書かれている。女性のほうがロマンティックだからか。 護良親王の墓の俗称は「首塚」(したがって、私は駅からタクシーに乗るとき、「首塚」と一言いえばいいのである)。墓は山の頂上にあり、石段を200くらい上らないといけない。宮内庁の管轄地で、ボランティアの善男善女(たぶん)がたえず掃き清めていて、ゴミひとつ落ちていない。夜は真っ暗なので、むかし拙宅でパーティを催したときには肝試し大会をやったものである。女性はまず無理である。私自身、夜中に階段をのぼったことはない。 ![]() 次に荏柄天神(↑)にいく。平安時代からある神社である。天神だからむろん菅原道真を祀っており、受験生が大勢お参りに来ている。ところで、菅原道真のように「神」になった日本人は何人いるのだろう。東郷神社や乃木神社はともかく、古来、「神」として祀られている人物は、べつに超能力者だったわけではなく、ましてや全能全知だったわけでもない。神が人間の姿をしてあらわれたわけでもない。たんにその「祟り」を畏れられた人物だったのだ。平将門しかり。 菅原道真は秀才だったらしいが、超能力者だったという話は聞いたことがない。いや伝説はいろいろあるが、何よりも彼のすごいところは、「あいつに祟られるかもしれない」とほぼ全国民に思わせたところである。「祟るぞ」とまわりを脅しておけば、そのうちに私の神社も建立されるかもしれない、などとばかなことを考えながらお参りする。 ![]() 私は有名な寒がりである。3番目に杉本寺(↑)にいく。鎌倉で最も古い寺である。建立は天平時代であるから、今から1300年以上前である。行基が開山した寺である。運慶作の仏像がごろごろしている。写真の金剛力士もそうだ。 江戸時代だったか、隣が火事になったとき、ここのご本尊はさっさと自分で杉の木の下に隠れたのだそうで、それで杉本寺という。 読者諸氏は、正月に私が買い込んだ三浦大根がどうなったのか、お知りになりたいであろう、というのは冗談。誰もそんなことは気にしていないであろうが、昨日は「大根デー」。夕食の献立は大根づくしであった。 前菜は、正月にいただいた烏魚子(からすみ)。かみさんも私もこれが大好物なのであるが、もちろん自分ではとても買える値段ではない。いただいたときだけ口に入るのである。そのまま食べると塩辛すぎるので、大根のスライスといっしょに食べるのがよい。台湾でもみんなそうやって食べていた。ただしスライスといっても、あまり薄くてはいけない。2ミリくらいが最適である。 ちなみに大根は「台」としてもたいへんな優れものであり、生フォアグラのソテーも茹でた大根といっしょに食べると美味である。 次は大根と水菜と桜エビのサラダ。梅ドレッシングで食べる。桜エビといっても、お好み焼きに入れる、あの干したやつではなく、生の釜揚げである。大根はスライスする。サラダ用のスライスは厚さ0.3ミリくらいがよろしい。 こういうとき、私が愛用しているフードプレセッサーが活躍する。フードプロセッサーといっても、電動式の高価な物ではなく、プラスチックの、簡単な鰹節削り器みたいなものである。プラスチックの箱に、形の異なる刃のついた板が5枚ついているだけのもの。ひょっとしたら100円ショップでも売っているかもしれないが、かんな削りにスライスするときと、刺身のつまを作るときには大変便利である(私はよく、大根とキュウリで「つま」を大量に作り、それに薄切りの刺身とナッツ、香菜を混ぜて、海鮮サラダをつくる)。 メインは、あら大根。大根はあらかじめ下ゆでしておく。あらは濃いめの味で煮る。醤油とみりんと酒と砂糖とだしである。むろん生姜を忘れてはいけない。私は、出汁を多めにして、汁も飲めるくらいの味にするのが好きだ。あらは10分くらい煮てから、最初の調味料の半分くらいの濃さの醤油・みりん・酒を加えて、さらに10分くらい煮てから、大根を入れる。食べる少し前にみりんと酒をさらに加える。皿に盛ってから、柚をおろし金でおろして、ふりかける。 食事の30分後、かみさんも私も「大根腹」になってソファで爆睡していた。 それにしても、私が夕食をつくっているかたわらで、かみさんはせっせと翻訳の仕事をしていた。ちょっとずるいような気もするが、かみさんの反対を押し切って大根を買い込んだ責任をとったしだいである。 何しろ巨大な大根なので、これだけ食べてもまだ半分余っているので、紹興酒と醤油(と花椒)で漬けることにした。明日は中華だな。 |
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1月6日(土)
4日は本年初バレエ。上野でレニングラード国立バレエの「海賊」を観る。 このバレエ団の「海賊」を観るのは久しぶりだ。つい先月マリインスキーの「海賊」を観たばかりなので、違いが興味深かった。本来は一番最後に、海賊たちの乗った船が難破する。このバレエは何度も何度も改訂されているが、どの版もその点に関しては共通している。だが1980年代の初演されたマリインスキー版は、グーセフとヴィノグラードフが大胆に作り替えたもので、冒頭で船が難破する。 マールイ(レニングラード国立)のボヤルチコフは、基本的にはマリインスキー版を真似しているのだが(この人ははっきりいって才能がない)、全体の劇的構成としては、こちらのほうがよくできている。とくに第一幕の幕切れはなかなかよい。 ただ、「生ける花園」の場面はおかしい。その前に、奴隷商人にふたたび捕まったメドーラが連れてこられる場面があるべきなのだが、それがないために、花園の場面でいきなりメドーラが登場する。これは絶対におかしい。 この日の公演の看板はルジマトフである。ルジマトフの「海賊」はさんざん観てきたので、とくに感慨はないが、まだ決定的に衰えてはいないことが確認できた。 素晴らしかったのはメドーラ役のペレンである。ここ数年、成長を続けている。彼女は素材そのもの(才能と肢体)がひじょうに上質だ。したがって「鍛えれば伸びる」タイプである。スタイルは鳥肌が立つくらい素晴らしいし、テクニックも申し分ない。ただ、完璧ではあるのだが、「プラス・アルファ」がまだない。残念である。できればマリインスキーかボリショイに移籍して鍛えられるといいのだが、レニングラード国立としては手放したくないだろう。いや、クチュルクだって移籍したのだから、移籍は不可能ではないと思うが、いかがなものか。 ギュルナーラのミリツェワも絶品であったことを書き添えねば不公平になるだろう。 5日はソンコ・マージュのコンサートに出かける。彼のことは昔から知っており、昔渋谷のジャンジャンかどこかで聴いたことがあるのだが、生で聴くのは本当に久しぶりだ。名前からすると外国人みたいだが、日本人の爺さんである。セゴビアにクラシック・ギターを習った後、フォルクローレ・ギタリスト、ユパンキの唯一の弟子となった人である。 客席に若い人の姿がなかったのが印象的だった。観客の平均年齢は65くらいだったのではなかろうか。 ご存じの通り、新年早々、陰惨な事件が起きた。22歳の浪人生が妹を殺してバラバラにしたという事件である。ちょっとのことでは驚かない私も、この事件には衝撃を受けた。自分の妹を殺してバラバラにするなんて、常人の想像力をはるかに超えている。きょうだい間の殺人、あるいは「殺したい」という願望は、カインとアベルを持ち出すまでもなく、同性異性を問わず、古来珍しくないが、死体をバラバラにしたという例は聞いたことがない。 犯人は証拠隠滅のために死体をバラバラにしたと供述しているそうだが、おそらくそうではあるまい。死体をばらばらにするというのは、相当に呪術的な行為である。死体が絶対に生き返らないようにするということである。いいかえれば、人間を人間でないものに分解するということでもある。 サカキバラを思い出せばわかるように、たんなる殺人と、クビを切り離すとか死体をばらばらにするという行為との間には距離がある。 おそらく彼は突然変異ではなかろう。妹とは3年間口をきいたことがないというが、家庭内にそんな状況が生まれたということは、この家族がまったく家族として機能していなかったということであり、この家族そのものが異常だったということだ。その家族の核心にあった問題が、この事件となって表面に噴出したのだろう。 |
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1月3日(水)
新年明けましておめでとうございます。 正月は、実家(母が私の妹一家と暮らしている)とかみさんの実家で過ごすのが通例であるが、今年は大晦日と元日を、母と妹一家とともに、南房総は白浜のホテルで過ごした。大晦日にフェリーで東京湾を渡って、南房総に行き、2日にかみさんの実家に移動し、例年通りかみさんの両親、それにかみさんの弟一家とともに、すきやきパーティをして、きょう私だけ鎌倉に帰ってきた。 3が日のあいだ、鎌倉中心部は車が全面通行禁止なのであるが(通行できるのはバスとタクシーだけ)、住民は「通行手形」をもっているので、「ちぇっ、入れねえのか」と不満顔のにいちゃんたちを尻目に、堂々と関門を通過することができる。これが私にとって正月のささやかな喜びである。 南房総からかみさんの実家がある市川まで、娘と交代でドライブしたのだが、カーナビと実際の道路とがところどころ食い違うので、何度か途惑った。そういえば、このカーナビは3年前に買ったもので、その後更新していないのだ。そのあいだにずいぶんと高速道路が延びたのであった。買い換えなくては。 だいたい正月というのは食って飲んでだらだらしているのであるが、今年は食事の間を縫って必死に年賀状を書いていた。おかげで3が日のうちにすべて出すことができた。 年賀状の宛名は印刷することにしているのだが、今年は住所録管理ソフトが不調だったり、年賀状を2種類作ったりしたため、手書きでかくはめになった。手書きで宛名を書くと、それだけで精一杯で、申し訳ないことに「ひとこと」を付け加える余裕がない。来年はまた印刷することにしよう。 わが家の年賀状はだいたい絵本から図案を拝借するのであるが、イノシシが登場する絵本というのはあまりないので、見つけるのに苦労した。 南房総から市川に移動する途中のドライブインで、農家が店を出して野菜を売っていた。かみさんはゴボウとサツマイモを買ったのだが、私はその隣にあった大根に一目惚れしてしまった。最近スーパーではもっぱら青首大根しか売っていないが、それはまあ見事な三浦大根なのである。ふつうの大根3本分はある巨大な大根である。しかも値段は200円だ。「うちの冷蔵庫にはまだ大根が残っている。絶対に食べきれないからやめろ」と猛反対するかみさんの抗議を無視して、買い込んだのであった。 これから当分、うちの夕食メニューは、ぶり大根、大根サラダ、ふろふき大根である。 |