ルジマトフとザハロワの「ジゼル」「バヤデルカ」を別にすると、これが今回の来日公演の目玉らしい。日本初演だが、じつは古い作品で、ボヤルチコフがまだペルミ・バレエの芸術監督をつとめていた、1972年の作品である。30年以上前の作品ということになる。
それにしても、なんという駄作。正月早々ひどいものを見てしまった。ちょっと、ベラルーシのエリザリエフ版を思い出してしまった。あれもひどかった。
ラヴロフスキー版とはずいぶん違う。いちばんの特徴は、白いコール・ド・バレエ(5組の男女)が登場すること。5組の民衆ペアも登場し、この2グループが対比させられながら舞台は進行する。舞台装置はほとんど無いに等しい。
ボヤルチコフは狂言回し的、あるいは「コロス」的な集団を登場させるのが好きだ。そのアイデアじたいはわるくない。なんの工夫もせず、標準的な版にちょっと手を加えて、自分の名前を冠する、そこいらへんのバレエ団よりずっとよい。
「竹取物語」では竹の精や月の精がそれなりの効果を上げていた。だが残念ながら、ここでは悲惨な結果に終わっている。バルコニーの場にも、寝室での別れの場面にも、また最後の場面にも、白いコール・ド・バレエが登場するのだが、これがじつにうるさいというか、目障りなのである。
死を具体的に描かない点も特徴的だ。ふつうマーキューシオはさんざん踊った後、倒れて息を引き取るのだが、ボヤルチコフ版では後ろの暗闇にすっと消えていく。最後、ロミオとジュリエットもまたそうやって後方に消えていく。これも、他のほとんどの版よりいいかというと疑問だ。
ボヤルチコフは極力リアリズムを廃そうと苦心したのだ。でも、その苦心はかならずしも成功していない。その原因は、たぶん彼に振付の才能がないからだ。
彼の振りはできるだけ古典バレエの標準的な動きを変えようとしている。ところが、変えて良くなったかというと、かえっておかしな動きになっているのだ。標準的な動きを変えてはいけないなどとは言わないが、「新しい動き」「新しいヴォキャブラリ」をもった振付家でないと、うまくいかない。プレルジョカージュ版もマイヨー版も「標準版」を大きく変えているが、自分たち独自の動きで振り付け、成功している。ボヤルチコフには彼独自の新しい言葉がないのだ。
クランコ版、マクミラン版はどちらも名作といえよう。それに比べると、ボヤルチコフ版は見劣りする。
主役のバビブリナは頑張っていた。彼女の素顔はもちろん知らないが、たぶんすごくまじめな人なのではなかろうか。いつ舞台をみても、じつに誠実に、まじめに踊っている。まあ、私は美人には点が甘いのだが。
プログラムには鈴木晶の「バヤデルカ」と「ジゼル」の解説が載っているが、そのほかにも女性舞踊評論家たちが原稿を書いている。そのどちらも「よいしょ」記事なので、笑ってしまった。私もルジマトフとザハロワをほめちぎっているが、それはプログラムだからではない。ふだんからほめちぎっている。でも彼女たちはいつもこのバレエ団やボヤルチコフの悪口をいっているくせに、プログラムでは歯の浮くようなお世辞を書いている。おやおや。