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シュトゥットガルト・バレエ団/ロミオとジュリエット
(2月6日、7日、東京文化会館)

 6日はマラーホフとイゾルト・ランドヴェ。7日はテューズリーとユリヤ・クレマーの予定だったが、クレマーが妊娠したとかで、スージン・カンに変更。ラッキー! スージン・カンはシュトゥットガルト・バレエ団の大ベテランであるだけでなく、韓国が生んだ最高のバレリーナであり、私は以前から彼女のファンである。
 シュトゥットガルト・バレエ団を観るのは久しぶり。前回、すなわち8年前に『オン・ユア・トウズ』をもって来日したときは、ちょうど日本にいなかった。
 クランコ版『ロミオとジュリエット』全幕をナマで観るのは、生まれて初めてである。イギリスにいたときに大学にあった古いビデオで一度観たことがあるだけ。あとは文献を通じて知っているだけだった。スコティッシュ・バレエが来日したときに公演したそうだが、記憶にない。
 マクミラン版はクランコ版をもとにして、というか意識して作られたもので、クランコの振付をそのまま取り入れている箇所も多い。いいかえると、違っている箇所は、マクミランが意識的にクランコの振付を変えたということである。
 マクミラン版の美術(ジョージアディス)は全体を茶系でまとめ、しっとりしていて大好きが、どこか北欧風で、ちょっと重苦しいといえないこともない。クランコ版の美術(ユルゲン・ローゼ)はそれとは全然違った意味で、また素晴らしい。イタリアの香りがする。ひとに聞いた話では、ローゼの衣裳はすごく踊りやすいそうである。クルベリ版ほどではないが、黒と赤の対立を用いている。また、最初のロザリンドが歩いてくる場面から墓所の場面にいたるまで、二層構造をうまく使っている。舞踏会シーンでは舞台全面と奥の二層構造をじつに巧みに使っている。なかでもとくに、背後に大きな満月の出ているバルコニーの場面と、少し暗い満月の出ている終幕がいい。
 マクミランはセクシスト(女性差別的)だといわれるが、実際、パ・ド・ドゥに顕著にあらわれているように、彼は女性をお人形のように扱う。ロミオはジュリエットを振り回し、もちあげ、ひきずる。ジュリエットはひたすらロミオに全身を委ねる。最後の場面でも、ロミオが仮死状態のジュリエットをふりまわす。ネクロフィリアである(死体嗜好)。あそこには、マクミランの特徴がよくあらわれている(プレルジョカージュはそれを踏襲している)。
 クランコは、おそらくフェミニストだったのであろう、女性の意志を尊重する。回されていても、リフトされていても、女性は自分の意志をもち、自己主張し、相手と対等に対話する。そうした点では、クランコ版のほうが女性の共感を得るだろう。いや、女性にもいろいろいるから、男の私にはよくわからないが(「あなた好みの女になりたい」という人もいるから)、少なくとも私には、この点に関してはクランコ版のほうが心地よい。
 踊りはマクミラン版のほうが流麗である。パ・ド・ドゥなど、流れがとまらぬまま、一気に最後まで踊ってしまう。クランコ版では、ちょっとしたしぐさが句読点のように踊りを分節している。また、バルコニーでも、寝室でも、パ・ド・ドゥのパのひとつひとつが台詞になっていて、ふたりの会話の意味が手にとるようによくわかる。このように、クランコ版のほうがずっとリアリズム演劇的である。
 いっぽう、マクミランは、マイムとダンスの境界線をできるだけ見えないようにしているが、クランコ版では境界線がはっきりしていて、「踊り出す」瞬間がわかる。だから、ちょっとぎこちなく見える。
 マクミランは群舞に関してはいつでも「手抜き」だったといわれるが、クランコ版のほうが、ヴァナキュラーな感じがよくでていて、雰囲気を盛り上げている。マクミランのほうが全体をきれいにまとめている。
 細かい差異はたくさんあるが、たとえば、クランコ版のほうがパリスに対して同情的である。マクミランはパリスに冷たい。つまり、マクミラン版のパリスはかなり悪人ふうに描かれている。終幕でも、出てきたと思ったら、すぐに殺されてしまう。クランコ版のジュリエットはパリスにも同情を寄せる。
 いうまでもないが、この物語は、他の家来たちを別にしても、たった5日間でマーキューシオ、ティボルト、パリス、ロミオ、ジュリエットと、若者ばかりが5人も死んでしまう陰惨なドラマである。マクミラン版は、他の作品でもそうだが、とにかく暗い。暗いロマン主義である。『マイヤーリング』なんか、めちゃくちゃ暗い。クランコ版にはユーモアがあり、それが劇全体に奥行きをもたらしている。
 6日のマラーホフもランドヴェも素晴らしかった。マラーホフは、思わず「おとなになったなあ」と感嘆してしまうほど、徹底的に自分を抑えていた。その抑制された演技が、彼の新たな魅力になった。ファン倍増まちがいなしである。ランドヴェも、とても可愛らしく、踊りも完璧だった。
 マラーホフと比べてしまうと、テューズリーはいささか凡庸だが、悪くなかった。でも、とにかく素晴らしかったのはスージン・カンである。ジュリエットにしては、いささか成熟しすぎているきらいもあったが、でもその演技の一つ一つに神経がゆきとどいていて、じつにリアルな。踊りはといえば、彼女はもともとひじょうに芯のある踊りをするダンサーだ。私は芯のある踊りがものすごく好きだ。それで彼女がジュリエットを踊ると知って、とてもうれしかったのだが、その出来映えは予想をはるかに超えていた。

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